2011/04
東日本大震災/嫁と娘と疎開のまとめ(1)
Tohoku and Sendai earthquake-1
まだまだ原子力発電所については予断を許さないものの、余震や流通は落ち着いて来た頃合いだと思うので、ここで少しまとめておこうと思う。
震災が起きてから、嫁と娘をどう守るかをずっと考えて対応をして来た。
一番怖かったのは、やはりパニックが発生した時で、幼い娘を連れて嫁と脱出するという状況、ましてや仕事中で離れた場所にいる場合となると、守ってやる事は無理だという結論にならざる得ない。
そのため、騒ぎが良い方向/悪い方向どちらに向くかは分からないものの、少し安定するまで、また自分が今後どう対応して生活して行けば良いかが判断出来るようになるまで、嫁と娘を疎開させる事を決断した。
現状、既に千葉に戻って来ており、ここまでは致命的な事態は発生しておらず、結果的に「やりすぎだった」「疎開は意味が無かった」「お金の無駄だった」という事になった訳だが、個人的には「家族の為に、思考停止せず、やれるべき最善の策を考え、そして実行出来た」という事実が非常に良かったと思う。
今回の経験があれば、この先、危険を感じた時に躊躇無く家族を逃がす事が出来るだろう。
何が必要でどういう手順が最適か、すでに分かっているのだから。
(勿論、自分だけでなく嫁も同様の経験値を得た事は大きい)
原子力発電所の状況は日々微妙な報道が続いているが、実際には「他国の軍隊」までが最前線で活動しており、それだけで如何に危険な状態かが容易に分かる。
ましてや生活用水にまで影響は拡大しており、今後も娘を生かすため、引き続き予兆を見逃さず、必要であれば迷い無く迅速に、避難をさせるよう心がけたい。
最後に、今回の災害で犠牲になられた皆様に、心からお悔やみ申し上げます。
また、疎開の前中後に相談にのってもらった、あくさん、せいじあに、こうじ、たっちーに感謝を。
やはり人は一人にあらず。
多数の人と友好関係を築くのは難しい人格破綻者である自分だが、せめて両手の指の数程度は近しい人との関係を大事にしたいと思っています。
本当にありがとう。
以下、疎開行動の記録。
(table タグを無理矢理はさんだらエラい隙間が出来てしまったので、スクロールして表示してやって下さい)
日付 | 起きた事 | やった事 |
03/11(金) | 14:46 宮城沖にて地震発生。 | 東京都/豊洲のデータセンタ−内で単独作業を行っている最中に被災。 免震構造物のため、怪我をする事も無くやり過ごす。 関東圏でも有数の耐震建築物である事も知っていた為、地震のただ中でもあまり不安は感じていなかったが、外を見渡すと、お台場の方で多量の煙が確認でき、じわりと恐怖がわいて来た事を思い出す(後にテレコムセンター周辺ビルの火災だった事が判明) 家族とはしばらく連絡が取れず焦るも、15:04 にメールにて妻と娘の安全を確認した。音声も固定電話から固定電話への連絡はまだ通じるようだった。16:00 頃、家族の声を聞く事が出来、妻に今後の対応について指示して一先ず心を落ち着ける事が出来た。 17:00 頃、普段勤務している本社スタッフと連絡が取れ無事を確認・報告。この時点では周囲の状況にしか目がいっておらず、震源地近辺については全く意識が無かった事を思い出す。 18:00 までに、関東圏に在住の友人数人と、実家があった頃の友人数名と安否確認や現状報告。沢山の友人を作る事が出来ない人間なので非常に簡素なものである(;´Д`) 20:00 の時点で帰宅を諦め泊まり。自販機のカップラーメン等を数個買い溜めしておき、サーバーの空き箱を並べてベッドを作って出来るだけ仮眠を取る事にした。 普段は会社では接続する訳の無い Twitter に接続し、情報の少ない社内の人間に電車の可動状況や各地の状況を連絡する作業を26時位まで続けて出来る事は終了。 メール、Twitter 、IRC、各種メッセージングについては特に問題無く動作していたと思う。ただし、災害時等は携帯のメールは自身で取得に行かないと駄目なのでそこだけおさえて置けば良さそうだった。 |
03/12(土) | 交通規制
15:36 福島第一原発第1号機が爆発 |
JRは完全に運休状態でメドが立たないため、地下鉄で帰宅する事を決定。 8:30 頃出て、新豊洲→月島→門前仲町→西船橋の経路にて帰宅する事が出来た。 10:30 頃、マンションに到着。ようやく家族の顔を見る事が出来た。 夕方あたりから、友人と IRC にて情報交換を開始(一方的に情報を貰っているだけでしたが・・・) 停電の可能性についての発表があり、それ対応するため、義兄にお願いしてクーラーボックス及び、保冷剤を購入してきてもらう。 |
03/13(日) | – | 防災設備を確認。 概ね準備があったが、沢山あると思っていた単一電池が、実は単二電池だと判明。懐中電灯用の電池の予備が無い事が分かり、電池を探すがコンビに等にも全くない。 またティッシュとトイレットペーパーがお店から消えはじめていたので幾つかを確保するが、やや不安のある数量であった。 結局、電池の件もある為、遠方の友人に電池およびトイレットペーパーを送ってもらうよう手配をする。 原子力発電所の状況が徐々に、具体的に、公開されるようになり家族の不安も増してくるような状況。ただし関東周辺の殆どの(嫁の)親戚や知人は全く問題視していないようだった。 |
03/14(月) | 11:01 福島第一原発第3号機で水素爆発 | 総武線、全線運休により自宅待機。 爆発等あり徐々に危険度が上がっていのを肌で感じる。 出来るだけ必要な物を確保。 水、食料、チョコレート、燃料等等。 また混乱を見越して、現金を確保。 この時点では、最悪、爆発しても5日程度屋内退避出来れば最悪の状態でも対応出来ると考えていた。 |
03/15(火) | 1:10 福島第一原発第2号機 ベント
6:10 福島1-2で爆発音 |
通常通り出社。 追加でみずほから、さらに現金を引き出しておく。 最悪のドライベント(と思われる)が発生。 この時点で、嫁と娘を関東からしばらく疎開させる事を決定。 実家と関東の中間地点で通勤も可能な長野/軽井沢を疎開先に選択。 この日の晩にホテルの予約、また、さらに最悪の事も考えて北陸の賃貸物件の状況を確認し、仮予約しておいた。 放射能汚染物質の飛散も怖いが、一番怖いのはパニックで、混乱の最中、幼い娘と嫁を守り切る自身が無かった。 当初、一週間程度リゾート気分で旅行している間に問題が収束するだろうと期待しいただのが・・・ |
03/16(水) | 8:30 福島1-3より白煙(水蒸気)
米軍93km以内の立ち入りを原則禁止 |
通常通り出社。 13:00 に嫁と娘は軽井沢/プリンスホテルへ出発。 疎開生活の開始。 送り出した後の異様な安心感は、今でも忘れない。 仕事は 16:30 に管理部から退社勧告。 おいしそうな夕飯を、東京駅の地下や大丸で調達。 この日の最後は露天風呂に1時間ゆっくり入り爆睡。 |
03/17(木) | みずほ銀行ATM等停止
|
軽井沢から出勤。 東京まで1時間かかるが、広いシートにだらしなく座りっぱなしで凄まじい快適度。 前日の温泉効果もあり、会社で一人だけ元気が良い状態。 またしても仕事は 16:30 に管理部から退社勧告。 また、以下を読了。 |
03/18(金) | – | 軽井沢から出勤。 超読書。 楽しい。 この日も温泉効果で、会社で一人だけ元気が良い状態。 またしても仕事は 16:30 に管理部から退社勧告。 また、以下を読了。 |
03/19(土) | – | 休日。 軽井沢を堪能。 温泉三昧。 お昼にステーキランチ食べたり、夕飯にコース食べたり、温泉入ったり本読んだり、娘と遊びほうけたり。 またしても少し元気になる。 以下を読了 この日、月が最も地球に近づく「スーパームーン」 |
03/20(日) | – | 休日。 軽井沢を堪能。 温泉三昧。 お昼にステーキランチ食べたり、夕飯にしゃぶしゃぶ食べたり、温泉入ったり本読んだり、娘と遊びほうけたり。 またしても少し元気になる。 以下を読了 マンションに比べ空間が広いため、娘がのびのびと遊んでいる。 |
03/21(月) | 祭日 | 休日。 軽井沢を堪能。 温泉三昧。 お昼にステーキランチ食べたり、夕飯にすきやき食べたり、温泉入ったり本読んだり、娘と遊びほうけたり、買い物にいったりと、またしても少し元気になる。 以下を読了 |
03/22(火) | 千葉の浄水場で200ベクレルの汚染 | 当初、3月21日に戻る予定であったが、状況に進展が無く、もう一週間滞在する事を決定。 お金は掛かるが、推移が良いなり悪いなりに安定しないと戻れないという判断。 この辺の判断が非常に難しい。 通常勤務で、軽井沢から出勤。 一人元気な状態で鬼のように仕事をする。 以下を読了 娘が食事に飽きて来ている様子。 |
03/23(水) | – | 通常勤務で、軽井沢から出勤。 徐々に会社の帰りに購入しているおいしい夕飯も、ネタが尽きてくる。 大丸が19時に閉まってしまう事もあり、ここで買えないと厳しい。 以下を読了 |
03/24(木) | – | 変わらず、軽井沢から出勤。
以下を読了。これで遠子先輩ともお別れ(涙 |
03/25(金) | – | 変わらず、軽井沢から出勤。
以下を読了。やはりSFは良い |
03/26(土) | – | 原発の状況が変わらず。 しかし、流石に事故後2週間も経過し悪いなりに安定して来ている為、今後の事を考えつつ、戻るか、さらに滞在するかを決断する必要がある。 嫁は金銭的な部分や、娘の栄養的な事、マンションの方に来ているであろう支払い事等が気になっており、かなりストレスは有る様子。 娘はすくすくと育ち、筋力が付きはじめ、当初は発育不全かと心配していたのが嘘ように、なんと、走り始めている。ただ、やはり栄養は偏っているようで肌はかさかさしてきているしあまり良くない。 とりあえず、おいしいご飯と温泉。 以下を読了。再び森奈津子。森奈津子の小説に癒される俺はやはりどこか壊れている。 |
03/27(日) | – | 引き続き、嫁と相談。 結局決まらず、もう少しだけ滞在しましょうという事になった。 本当にこの辺の判断は難しい。 ただ、嫁も娘もかなりストレスを受けているのは確かで、正直、戻して上げたいという思いが強かったが、踏ん切りがつかないという状態。 金銭的/栄養的な問題は、ホテル住まいからウィークリーマンション等に切り替え自炊する事でかなり改善されるが、このまま継続して疎開生活をさせるべきかどうか、ひたすら悩む。 が、結論が出ないので、再びコース料理等を楽しんだり、温泉浸かったり、以下を読了したり。 |
03/28(月) | – | 通常勤務で、軽井沢から出勤。 いまだ決断つかず。 どうしたら良いか、どうするのがベストか、悩む。 ウィークリーマンションを検討し始め調査をする。 さらに疎開生活を継続するのであれば、土地勘があり、実家のあった場所が近い富山辺りがよいかなと調査を行う。 最終避難場所は、もんじゅの問題はあるにせよ、数年間暮らした事もあり、且つ、兄や友人が近くにいる富山が良いかなと考えていた為、どうせ疎開を続けるなら最終避難所まで行っておいた方が良いかという思いもあり、兄や友人にも連絡を取って手回しはして置いた。 が、ここまでしておきながら、またしても決断出来ず保留。 そんな状況でも、温泉には入り、以下を読了 |
03/29(火) | – | 通常勤務で、軽井沢から出勤。 いくら何でも悩み過ぎだろうと決断。 一旦戻る事にした。 ・嫁のストレス 等が主な理由。 ・外出前はニュースを必ずチェックする。 引き続き、長期疎開は考慮するけれども、万が一爆発飛散等した場合には速やかに動ける準備はして生活しましょうと、嫁とお話をして、戻る事にした。 一時間くらい悩んで上記決断をし、ついで以下を読了。 この日、軽井沢最後の晩に星撮りをやってみた。 |
03/30(水) | – | 帰宅。 長い疎開生活の一時終了。 |